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「子供の頃の夢は医者になることでした」と光代さん。物心ついた頃から病院の医師や看護士と、治療に取り組んで来たことを考えれば、至極自然な夢である。 「11才の頃、医者になる夢をあきらめたんですね。それで、急降下ですよ(笑)。医者になるためには、勉強も大変だし、お金もかかるということを知って、現実的に無理だ、あきらめようと思って。そうしたら、すっかりやる気がなくなってしまって」 勉強をする気がないから授業中、眠くなる。テストは一夜漬けで乗り切った。ギリギリのラインで進級し、高校にも進学するが・・・ 「15才の時に出会った10才年上の男性と高校を卒業したら結婚して、専業主婦になるつもりでいました。ところが、17才の夏休み前に、その人から急に別れ話を切り出されたんです。理由もわからず、納得もできなかった。夏休みは、ずっと部屋の中で布団かぶって、オフコース聴いて、引きこもってしまいました」 この失恋による落ち込みは「-50」程度。しかし、その1ヶ月後には元カレの友達と付き合い始めることになる。新しい恋によって、「+10」まで回復。ところが・・・ 「元カレから、突然、ヨリを戻そうと言われたんですよ。自分の友達と私がつき合っていることを知ったみたいで、そういう話よくありますよね(笑)。でも、当時17才の私は、本当に混乱してしまって。それで、ズド〜ンと『-80』くらいまで。落ち込みました」 失恋した時は部屋に引きこもった光代さんだったが、今度は・・・ 「貯金が70万円くらいあったので、それを持って旅に出たんです。お金がなくなるまでにどちらとつき合うか決ようと思って。2ヶ月間、長野のあちこちをまわりました。山に登ったり、美術館を巡ったり。見た目が大人っぽかったので、怪しまれることもなく、旅をしていました。結局、新しい彼とやり直そうと決めて、戻って来たんですが、学校が捜索願いを出していて、退学させられそうになっていました。夏休みはとっくに終わっていたんです」 光代さんはその頃、親元を離れて一人暮らしをしていた。もちろん、両親からは「高校を卒業してからにしなさい」と反対されたが、光代さんが押し切った。だから、彼女が2ヶ月も旅行に出かけていても、両親はあまり心配していなかったそうだが、世間は、学校は違った。 「今、振り返ってみれば、17才でしなくてもいい苦労をしたと思いますよ。何だったんでしょうね。でも、自立をしなくてはいけないと、これは戒めなんだと、自分で自分を追いつめたところはありましたね。まぁ、でもそれで生活することがどんなに大変か、気づいたんですよね。それで逞しくなれたっていうのは、あると思います」
高校を卒業して間もなく、街でスカウトされた光代さんは、モデルの仕事を始める。高校を卒業したら主婦になるつもりだったが、だんだん仕事が面白くなっていった。あるミスコンで、水着姿で特技の顔真似を披露したところ、大手の芸能事務所の目にとまった。その芸能事務所の同期に爆笑問題がいた。 1988年ごろから太田光さんとの交際が始まり、1990年秋に結婚。タレント活動を続けることにした。専業主婦になる夢はどこかに置き忘れてしまったようだ。 「結婚して、しばらくしたら、夫が勝手に事務所を辞めてしまったんです。辞めた理由や経緯は今でも納得できないところがあります。将来を期待されていた一押しのタレントでしたから。無理矢理に独立して、うまく行くほどこの世界は甘くない。仕事が激減して、一気に売れない芸人になってしまった。私のタレントのギャラだけでは生活していけないから、パチスロで食いつないだり、田中裕二とアルバイトで働いたこともありました。実は、コンビニで、田中が生き生きと働いているのを見て、危機感を覚えたんです。夫は放っておいてもいつか目覚めると信じていたけど、田中はこのままアルバイトで働き続けてしまうのではないかと。そうなったら、コンビ解消だ。爆笑問題はダメになると、急に焦りを感じました。それで、私がやるか・・・ということになったんです。書店で、『会社の作り方』といった類いの本をどっさり買い込んで勉強しながら、タイタンを立ち上げました。会社設立から5〜6年は必死でしたね」
笑い芸人
NPO法人ハロードリーム実行委員会代表理事/(株)Nal代表取締役
(夜のストレンジャーズ)ミュージシャン
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