<子供に見せたくないアニメ>といわれた『クレヨンしんちゃん』の劇場版で、文化庁から表彰されたり、昨年劇場公開された『河童のクゥと夏休み』では、ジブリ作品以外のアニメーション映画で初となる、キネマ旬報ベストテン入りを果たしたり。アニメーションの枠にとらわれない映画作りが多方面から高い評価を得ている原恵一さん。「嫌な思い出も、苦い経験も、やがて生かされる時がくる。『河童のクゥと夏休み』がまさにそうだった」と話す原さんに、なぜアニメの仕事をしているのか、どうやって働いてきたのかなど、半生を振り返っていただきました。 (Photo:昭樹)
|
 |
原さんの人生グラフの底は、高校時代。志望校の受験に失敗し、滑り止めの高校に進学した。
「高校の時が最悪だったと思いますね。ツッパった奴らが幅をきかせていた弱肉強食の世界。僕みたいな気の弱い性格の生徒は、なじめなかったし、生きにくい場所だった」
高校時代は最悪だったが、未来への夢はあった。
「高校を卒業したら、自分の得意なものを生かせる<場所>に行こう。何となくそう思って暮らしていました。
人とコミュニケーションをとるのが上手くないというのは、自分でもわかっていたんで、普通のサラリーマンにはなれないと思っていたし、なりたくないと思っていた。スーツを着てネクタイ締めている自分というのが全然イメージできなかったですね。
具体的にアニメーションに携わりたいと思っていたわけではないけれど、絵を書いたりするのが仕事になるような道に進みたいと思っていました」
|
 |
絵を書くのが好き。どちらかといえば得意かも。原さんは高校を卒業後、東京の専門学校に進む。そこで、自分よりも絵のうまい人は五万といることを知る。それから導かれるように、アニメーション制作の大手、シンエイ動画に就職。
『怪物くん』、『フクちゃん』、『ドラえもん』と人気アニメに携わり、いつの間にか『ドラえもん』の演出を手がけるようになっていた。原さんが担当した『ドラえもん』の少し凝った構図は、アニメ関係者やファンの関心をひいた。駆け出しの頃は後ろから追いかけて、ついていくのが精一杯だった仕事が、いつの間にか仕事に追われるようになっていった。28才のころ、仕事は多忙を極めた。
「アニメの仕事はキリがないんです。で、間違いなく遅れていくわけですよ。現場って。状況はどんどん悪くなる。仕事やりながら、うんざりしてきて(笑)」
1988年。『エスパー魔美』で初めてチーフディレクターとしてTVアニメシリーズを任された。この仕事で、最後にしようと思っていた。
「大好きな藤子F先生の作品だったんですけど、初めてのことばかりで、いろいろ大変だった。思うようにならなかったり、納得いかないこと言われたり、ものすごく辛かった。僕にも問題あったと思うんだけど。その時に、真剣に考えたんです。頭にきたヤツをぶん殴って、会社を辞めて、逃げだそうと。旅に出ようって(笑)」
|
 |

『エスパー魔美』シリーズをやり遂げた原さんは、本当に旅に出た。30才になっていた。
「たまに海外旅行はしていたんですが、勤めていると正月休みに数日間の予定で行くのが精一杯でしょ。一度でいいから、『これぞ、旅』って言えるようなものにどっぷり浸かりたいと思っていた。行くならこのタイミングしかないと。理解してくれる人は、いなかったですね。ぜひ行ったほうがいいよっていう人はいなかったです(笑)」
東南アジアで約7ヶ月、バックパッカーで放浪した。その時、自分には旅に出ることが必要だと思った。旅をしたら、もっと違うことが始まるかもしれないと思った。アニメの仕事を辞めてしまってもいいと思っていた。旅をしながら何か見つけたら、それをやろうと思っていた。だが――。
「行けば行ったでね、バックパッカーだから快適な旅じゃない。宿だって安宿だし。移動も全部、自分の手でなんとかしないといけないし。ほんとはもっと長期間のつもりだったんだけど、だんだん疲れちゃったんですかね。予定より早く帰ってきてしまいましたね(笑)。
会社を辞めて旅に出るつもりだったんですが、『休職にしといてやるから、帰ってきたらまた来なよ』って、言ってくれたんですよね。それをあてにして、また、ノコノコ戻ってきてしまった。
自分としては、旅行の前後で、全然違った環境になっていたいと思っていたわけですよ。でも、結局、そういうものはなくて、またもとの生活が始まって、ものすごくがっかりしましたよ。また同じ日々が始まるんだ〜、って。
でも、放浪の旅に出たことは、やっぱりその後の自分に、すごく役に立っていると、今では思っていますよ」
|
|
|
 |
|
|
|
|
|
|
|
|