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人気お笑いコンビ「千原兄弟」の弟・千原ジュニアが34才の誕生日に『3月30日』(講談社刊)を上梓する。昨年、引きこもりを題材として16万部突破のベストセラーになった自伝的小説『14歳』(同)に続く第2弾。15才でお笑いの世界に飛び込んでから、2001年のバイク事故までの約12年間を綴った。最近では、テレビで見ない日はないくらい全国区の人気を獲得した千原ジュニアだが、2度も死にかけた山あり谷ありの道の途中。歩いてきた“自分の道”をグラフにしていただきました。 (Photo:昭樹)
この世界から逃げ出し、また部屋にカギをかけて閉じこもるのは絶対に嫌だと想った。僕にはこの世界しかない。(『3月30日』本文より)
初めてお客さんの前でうけるまで3年かかりました


――子供のころからヤンチャだったんですか?

 ヤンチャはヤンチャでしたけどね。おもしろ半分でタバコ吸ってみようぜとか、エロ本買って見ようぜとか。そういう好奇心って、男の子にはあるでしょう。その程度のことだったと思いますけど。

 ただ、小さい頃から、ほかの人と僕は違うという感覚がありましたね。みんなが超合金を集めたり、筋肉マンやガンダムに夢中になっていたけど、僕は何一つ持ってなかったですからね。みんなが持っているのが嫌で反発していたわけでもなく、ただ興味がわかなかっただけなんですけどね…。

――ほかの子とちょと違うところが、大人の目についたのかもしれませんね。そして、大人がジュニア少年の笑顔を奪った。11才のとき。友達のお母さんが『僕(ジュニア)と遊ぶな』と友達を怒っている声を聞いたという…。

 なぜ、中学を受験したのかと聞かれたら、理由はそこなんだけど、そんなに僕の中でしこりとして残っているわけでないですよ。前著『14歳』にも書いたように、ひきこもったきっかけとして、外せないというか。兄の靖史(せいじ)に誘われて、笑いの世界に入ったというのと同じレベルの話です。

――受験を突破して、青い学生服の中学校に「居場所」を求めたが、そこはとても居心地の悪いところだった。自分の「居場所」ではないと思った。だから14才のときに、自分の部屋にカギをつけて「居場所」を作った。そして、笑いの世界という「戦うべき場所」を見つけ、家を出る。吉本のタレント養成所、吉本芸能総合学院(NSC)に入校し、兄と「千原兄弟」を結成した。

 まったくうけませんでしたね。吉本の養成所は、ネタを厳しく批評するだけで、どうやったら笑ってもらえるかを教しえてもらう場所ではない。そんなこと教わるものでもないですからね。笑いをとれるネタを考えて、自分たちのものにしなければならない。どうすればいいのかすぐには解らなかったですね。不安でいっぱいになった。だけど、学校も辞めてきたし、もうココしかないって。必死に自分に言い聞かせて。

 そんなとき、大阪・心斎橋筋2丁目劇場に出してもらえることになって、「客の前では絶対うける」そう思っていたんですけど。誰一人笑わなかった。すべてが打ち砕かれるようなうけなさ具合だった。

 なんで、うけなかったのかを考えました。僕は笑いを知らないってことに気付いたんです。子供のころから笑いが好きだったわけでも、笑いを観ていたわけでもない。学校で誰かを笑わせたこともなかった。養成所の同期に「ナンとかさんのナンとかというコントが面白かったよな」って言われても意味がわからなかった。見てないから。そんな人がやってるの見てどうすんねんと、思っていたくらい。でも、ここまで切羽詰ったら、もうあとは他人の笑いを見るしかないって思ったんです。

――18才。人生グラフの2度目のどん底だった。そこからどのように這い上がって行ったのでしょうか。

 次の日から毎日2丁目劇場に足を運んで、舞台そででいろいろな笑いを見ましたね。間の取り方とか、構成のし方とか、吸収するべきことばかりでした。そのとき、初めて笑いを勉強したって感じで。

 舞台そでで学んだことを集約して1本のネタを作りました。それがうけた。初めてお客さんの前でうけるまで、3年かかりました。そのときすべっていたら、今みたいにやれていないだろうし、そこは大きなターニングポイントになりましたね。

右肩上がりのロ人を笑顔に、自分を笑顔に。それだけですね。


――お客さんの前で初めてうけたその日から、千原兄弟の株は急上昇。レギュラーで2丁目劇場の舞台に立ち、テレビにも出るようになった。特にトーク番組の司会で彼らの人気と才能は爆発。大阪の女子中高生を中心に『カリスマ』とまで言われた。売れっ子芸人の仲間入りをして、多忙を極めたある日、意識を失って倒れた。急性肝炎だった。意識を失っている間にジュニアは誕生日を迎え、21才になっていた。幸いA型肝炎だったので、命には別状はなく、2ヶ月で復帰。大阪城ホールを満員にしたのもこの頃で、大阪では確固たる地位を築いていた。しかし、21才をピークに再び人生グラフは下降線を描く。それは、活動拠点を東京に移した時期と重なっていた。

 東京ですぐに人気が出るほど甘くはなかったですね。全国区でうけるための笑いは違うっていうか、大阪と同じようにはいかん、そこのスイッチの切り替えが、テクニック不足というか不器用というか、簡単にいうと頭が悪かった。仕事は激減しました。東京のお笑い界に自分たちの居場所はなかった。見つけられなかった。

 東京に出てから4年くらい悶々としていましたかね。ある日、同じ会社の先輩がやっている番組に呼ばれて、内容はそこに出演している芸人についてフリートークするという企画で。フリートークには大阪時代に培った自信があったし、そこでようやく“らしさ”が出せた気がしました。それ以来、東京でも「おもろいな」っていう声が聞こえてくるようになってきましたかね。

――東京での競争は厳しかったけれど、突破口を見つけた矢先、あのバイク事故が起きたんですね。

 まあ、そうですね。

――生死をさまよう事故にあって、人生観が変わるというのは想像に難くないのですが、バイク事故の前後でどのような変化があったのでしょうか。

 事故にあう前の僕は、周りに助けられていることとか、素晴らしい人たちに運良く囲まれるってことが、当たり前だと思っていた部分もあって。そういう態度で人に接していたし、生活していた。

 今回の本にも書いたんですが、「自分がおもしろいと想うことだけをやる」「僕の笑いが解らないなら観なくてもいい」「明るく楽しくなんてできない」「優しさを見せる必要なんてない」、そう思っていた今までの僕は間違っていたんじゃないかと思ったんですよ。

 事故にあう前は、取材もキライだったんですよ。わかってくれなければ、わかってくれなくてもいいってそう思っていた部分もあったからでしょうかね。

 入院中、見舞いに来てくれた仲間たちから思い知らされました。自分が面白いと想うことをみんなに伝える優しさ。人を笑顔にするおもしろさを。

 お笑いをやっているくせに、自分は笑っていませんでしたからね。10代、20代前半、そう事故にあうまでは。人を笑顔に、自分を笑顔に。それだけですね。自分の笑顔ですか?最近、増えてきましたよ。

――お笑いの世界を目指している人へ。ジュニアからのメッセージは次のページへ。



ベストセラー『14歳』に続く自伝的小説。自分の笑いがまったくうけない苦悩と挫折、彼女との出会いと別れ、そして2度の“死の危機”を乗り越えて手に入れた大切なものを、独自の文章で描き上げた傑作。

『3月30日』
著者:千原ジュニア
定価:1470円(税込)
発売日:2008年3月30日
出版社:講談社
ISBN 978-4-06-214600-5

公式サイト>>
http://moura.jp/bungei/330/

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